行きたいところに行けるようになった。

実家は県庁所在地の駅から車で15分、そう遠くはなかった。田舎にしては便利な方だが、終バスは19時半。高校時代はクラスで学園祭の打ち上げがあったり友達とディズニーに行ったりする、みたいな時以外は親に気を遣って終バスに乗れるように生活していた。帰る時間に気を使わなければいけないことは、とても窮屈なことだと思っていた。
大学に進学し、東京に住みはじめた。急行が止まる最寄り駅、終電は大きな駅から0時45分。誰にも迎えに来てもらわなくても今では終電があるとはいえ何時にでも帰れるという心の余裕が生まれた。と、同時に余裕というのは隙間でもあった。隙間は塵も積もれば山となり、たまに大きな穴となってしまう。部屋の鍵、開けて実家よりも幾分も狭い空間、電気はもちろんついていない。最寄り駅から帰る途中、バターを熱する香りがふと。去年、夕ご飯がオムライスだった日の香りがして、したとしても家に帰ると電気はついていない。わたしが後から帰ってくるのをわかっていてわざと鍵を閉めてしまう弟もいないし、部屋の鍵はいつもわたしだけがまわすものである。でも、実家に住んでいないからこそ実家に帰りたくなってしまうこともちゃんとわかっています。

海水に浸かる話

水族館が好きです。幼稚園生の頃ファインディングニモの映画を見て海に詳しくなりたいな〜と思い、旧東京商船大学に遊びに行ったことがあります。結局それを学問として修めるほどの熱意はなくて今に至るわけですが、ただ海にいる生き物を眺めているのが好きです。

人間は海上ではいきられません。魚みたいにエラ呼吸できないし、カモメやペリカンみたいに塩類腺も持っていません。身近ではあるけどそこで生活することはできない、それくらいの距離感がいいなって思ってます。分厚いアクリル板越しに直接物質のやりとりはできないくらいがちょうどいいです。

 

久石譲の曲に「海の見える街」、「海のおかあさん」という曲があります。前者も後者もワルツであり、私は彼の作る三拍子が好きです。(音楽的なことはいまいちわからないのですが)前者はバルト海、後者は太平洋。魔女の宅急便もポニョも見ていなくても伝わってくると思います。どちらも心がぎゅっとなってしまう。

 

高校三年の秋、地元の海沿いを全校生徒で歩きました。この行事自体は夜通し歩く辛いだけのものなので修学旅行に代わるほどではないと思ってるけど、潮風で髪が絡まるな、と煩わしい思いをしながらも進んで行った松がどこまでも植わっている景色、砂浜、寄せては返す波、忘れられなかったです。今年の初詣で近くを通ったのですが、思い出補正が本当にひどい。郷愁。二度と経験はしたくないけど思い出としてはとっておきたい。

 

浸かるというか、色々と浸ってしまったという話でした。